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asakura01.exblog.jp
最近気になる漢字に“分”というのがあります。
これが使われる文句に「分をわきまえる」というのがありますが、自分の地位や能力を知るという意味で、なんとなく古臭くネガティブなイメージがあります。
水戸黄門などの時代劇でよく使われる文句では、いかにも「悪」といった代官が「農民の分際でよくも」なんていうのは、「越後屋、お主も悪よのぅ」と同じようによく使われており、“分”が使われる文句としてはイメージが最悪な例ですね。
しかし、今では本来“分”があるべきなのに、十分な自覚がないような気がします。
責任ある立場の人がきちんとそれを取らないとか、行使すべき力を適切に使えない場合なども、“分”を忘れている気がします。
「社長の分際」とか「大臣の分際」なんて、新たに言えるかもしれません。
社会もそうだからでしょうか?季節もなんだか変ですね。
5月になるというのに、なぜか朝晩ひんやりとして。
春分も確かそうでした。
春分とは春の分岐点で、ちょうど太陽が真東から上って真西に沈む日、これから昼の長さが長くなると同時に暖かくなり始めるのが通常ですが、今年はその春の”分”を忘れているかのように、一向に暖かくなる気配がしませんでした。
ついつい「春の分際で」と言いそうになりましたが、言っても仕方ないので止めました。
だから“分を知る”とは大事なことではないかと思います。
確かに高度経済成長期で生産も消費も拡大していく時代では、窮屈な響きさえしましたが、今のように低成長では限りがあり、みんなで分かち合うような時代には却って新鮮な気がします。
特に感じるのは、これから日本全体で考えていかなければならない東日本大震災と少子高齢化問題です。
全体で考えるとは、いかにその重荷を各自が分かち合うかということでしょう。
とすれば、その中で各自の“分”という意味での自分が重要になると思います。
その“分”とは、できること、しなくてはいけないことなどの役割です。
確かに日本語で一人称単数形には私、僕、俺、我、わしなど色々ありますが、中でもあえて自分が肝心です。
自分を知るということは自らの“分”、自らの役割やできることを知ることです。
若者の自分探しというのも、世の中での自らの役割やポジションを探すことでしょうが、これからは東日本大震災や少子高齢化問題に対して、自らがどういう役割をすべきか考えることが大きなテーマかなと思います。
そういう意味で、これからは自分の時代、自らの“分”、役割を考える時代かなという気がします。
別に無理をして自分を大きく見せようと見栄を張っても仕方がないことですしね。
他には、時分を知ることもいいですね。
また、気分も大事ですね。
時間も1分1分が大切ですか?
これから二人称は、貴方ではなく貴分はどうでしょうか?
そして三人称なら、他人だから他分で?
たぶん無理でしょう・・・。
これが使われる文句に「分をわきまえる」というのがありますが、自分の地位や能力を知るという意味で、なんとなく古臭くネガティブなイメージがあります。
水戸黄門などの時代劇でよく使われる文句では、いかにも「悪」といった代官が「農民の分際でよくも」なんていうのは、「越後屋、お主も悪よのぅ」と同じようによく使われており、“分”が使われる文句としてはイメージが最悪な例ですね。
しかし、今では本来“分”があるべきなのに、十分な自覚がないような気がします。
責任ある立場の人がきちんとそれを取らないとか、行使すべき力を適切に使えない場合なども、“分”を忘れている気がします。
「社長の分際」とか「大臣の分際」なんて、新たに言えるかもしれません。
社会もそうだからでしょうか?季節もなんだか変ですね。
5月になるというのに、なぜか朝晩ひんやりとして。
春分も確かそうでした。
春分とは春の分岐点で、ちょうど太陽が真東から上って真西に沈む日、これから昼の長さが長くなると同時に暖かくなり始めるのが通常ですが、今年はその春の”分”を忘れているかのように、一向に暖かくなる気配がしませんでした。
ついつい「春の分際で」と言いそうになりましたが、言っても仕方ないので止めました。
だから“分を知る”とは大事なことではないかと思います。
確かに高度経済成長期で生産も消費も拡大していく時代では、窮屈な響きさえしましたが、今のように低成長では限りがあり、みんなで分かち合うような時代には却って新鮮な気がします。
特に感じるのは、これから日本全体で考えていかなければならない東日本大震災と少子高齢化問題です。
全体で考えるとは、いかにその重荷を各自が分かち合うかということでしょう。
とすれば、その中で各自の“分”という意味での自分が重要になると思います。
その“分”とは、できること、しなくてはいけないことなどの役割です。
確かに日本語で一人称単数形には私、僕、俺、我、わしなど色々ありますが、中でもあえて自分が肝心です。
自分を知るということは自らの“分”、自らの役割やできることを知ることです。
若者の自分探しというのも、世の中での自らの役割やポジションを探すことでしょうが、これからは東日本大震災や少子高齢化問題に対して、自らがどういう役割をすべきか考えることが大きなテーマかなと思います。
そういう意味で、これからは自分の時代、自らの“分”、役割を考える時代かなという気がします。
別に無理をして自分を大きく見せようと見栄を張っても仕方がないことですしね。
他には、時分を知ることもいいですね。
また、気分も大事ですね。
時間も1分1分が大切ですか?
これから二人称は、貴方ではなく貴分はどうでしょうか?
そして三人称なら、他人だから他分で?
たぶん無理でしょう・・・。
#
by asakura_h
| 2011-04-30 13:06
4月15日に行われた高知市西部地区カンファレンスは、“地域連携”をテーマに200名近くの医療介護関係者が集まり盛況でした。
勿論、”地域連携”とは国立病院を中心とした、在宅関係の連携がメインです。
司会の藤井クリニックの藤井先生をはじめ、発表されたパネリストの方々もこんなに大勢集まると思わなかったのか、いい緊張感があったように感じました。
その中で印象深いのは、在宅の癌患者(特に末期癌)に関して在宅診療を行う医師から、「治療する中核病院の医師が、退院後の患者の生活を含めた包括的な方針ではなく、単に治療のみを優先しているように思われる」と指摘されていました。
今までの医学教育が治療中心だった為、多分にそういう面もあるでしょう。
だから、本当の治療とは、その後の生活を含めた幅広い視野で行う必要があるのでしょう。
もし、そこまで気が回らないとすれば、それこそカウンセラーなどのコメディカルをうまく使ってほしいものです、そこに連携の意味がありますから。
また患者さんやその家族にも、「治療しても効果がないのに、治療を続けていないと安心できない方もおられる」という指摘には、医療介護従事者としての役割を改めて考えさせられました。
その為には“思い切り”が重要かなということです。
色んな思い込みを持つ患者さんやその家族を、そこから解放させてあげること、別の言い方では必要な事実を知らせるという啓蒙的な側面です。(時には上手な嘘も大事ですが・・・)
ただし、そこには伝え方というのがあります。
ムンテラの回でも指摘したように、医療介護従事者の言葉は重いわけで、その重みで患者さんの思いを上手に除いてあげること、この“上手に”というのがプロの技ですね。
ずばり連携とは、”思い切り”で患者さんやその家族が納得した事実を、それに関わるすべての医療介護従事者が共有することからスタートすることかなと思ったりします。
その為には、患者さんを交えた話し合い以前に、関係者がそれこそ納得するまで打ち合わせることが必要でしょう。
その関係性は、椅子の三脚に似ています。
椅子の上に座るのは患者さんやその家族です。
その台座の部分が、相談員やケアマネージャーなどのまとめ役です。
このまとめ役があって、その下に医師、ナース、ヘルパー、リハビリなどの専門職が三脚となって支える事ができます。
このためには脚のバランスが非常に大事です。
仮にひとつの脚が突出すれば、たちまちバランスは悪くなります。
“三”というのは、社会を構成するのに最低必要な数という意味の“三”であり、別に“四”でも“五”でも構いません。
結局、連携とは患者さんやその家族が、安心して座れる地域の”椅子”作りだと思います。
それには三角関係のもつれように、三脚関係のもつれは無しですね。
くれぐれも患者さんが”こけないように”ですね。
勿論、”地域連携”とは国立病院を中心とした、在宅関係の連携がメインです。
司会の藤井クリニックの藤井先生をはじめ、発表されたパネリストの方々もこんなに大勢集まると思わなかったのか、いい緊張感があったように感じました。
その中で印象深いのは、在宅の癌患者(特に末期癌)に関して在宅診療を行う医師から、「治療する中核病院の医師が、退院後の患者の生活を含めた包括的な方針ではなく、単に治療のみを優先しているように思われる」と指摘されていました。
今までの医学教育が治療中心だった為、多分にそういう面もあるでしょう。
だから、本当の治療とは、その後の生活を含めた幅広い視野で行う必要があるのでしょう。
もし、そこまで気が回らないとすれば、それこそカウンセラーなどのコメディカルをうまく使ってほしいものです、そこに連携の意味がありますから。
また患者さんやその家族にも、「治療しても効果がないのに、治療を続けていないと安心できない方もおられる」という指摘には、医療介護従事者としての役割を改めて考えさせられました。
その為には“思い切り”が重要かなということです。
色んな思い込みを持つ患者さんやその家族を、そこから解放させてあげること、別の言い方では必要な事実を知らせるという啓蒙的な側面です。(時には上手な嘘も大事ですが・・・)
ただし、そこには伝え方というのがあります。
ムンテラの回でも指摘したように、医療介護従事者の言葉は重いわけで、その重みで患者さんの思いを上手に除いてあげること、この“上手に”というのがプロの技ですね。
ずばり連携とは、”思い切り”で患者さんやその家族が納得した事実を、それに関わるすべての医療介護従事者が共有することからスタートすることかなと思ったりします。
その為には、患者さんを交えた話し合い以前に、関係者がそれこそ納得するまで打ち合わせることが必要でしょう。
その関係性は、椅子の三脚に似ています。
椅子の上に座るのは患者さんやその家族です。
その台座の部分が、相談員やケアマネージャーなどのまとめ役です。
このまとめ役があって、その下に医師、ナース、ヘルパー、リハビリなどの専門職が三脚となって支える事ができます。
このためには脚のバランスが非常に大事です。
仮にひとつの脚が突出すれば、たちまちバランスは悪くなります。
“三”というのは、社会を構成するのに最低必要な数という意味の“三”であり、別に“四”でも“五”でも構いません。
結局、連携とは患者さんやその家族が、安心して座れる地域の”椅子”作りだと思います。
それには三角関係のもつれように、三脚関係のもつれは無しですね。
くれぐれも患者さんが”こけないように”ですね。
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by asakura_h
| 2011-04-28 14:47
投資の世界ではローリターン(低い利益)のものはローリスク(低い危険)、ハイリターン(高い利益)を狙えばハイリスク(高い危険)というのが相場ですが、医学の世界はそれとは違ってハイリターンでローリスクが基本です。
どんなに効果がある薬でも、高い死亡率であればまず承認されることはありません。
ただし、ローリスクだからといってノーリスク(危険なし)ではないことが重要です。
当院でも上部消化管の内視鏡検査を行いますが、当然のようにリスクの説明をします。
穿孔(穴が開いたり)、ひどい出血があったり、確率で言えば1000人、1万人に1人しか起きないことであっても説明しますが、それでも想定外なことが稀にあります。
だから単なる説明だけではダメで、前回ムンテラについて触れたように、信頼を得る態度や話し方が重要ですし、何よりも何かが起きた時にこそきちんとした対応で、何が起きたのかをきちんと情報開示することが肝要です。
よくトラブルとして上がるのが予防接種です。
今回、HIBワクチン(髄膜炎菌の予防接種)で幼児7名の死亡例が見られたため問題になっていました。
アナフィラキシーショックのように死亡に至る重大な副作用は100万人に1人の確率ですが、数百万人単位で接種者がいれば確実に有り得る事になります。
それが自分の子供に起これば悔やみきれないでしょう。
この悔みには、ついこの前まで元気に過ごしていたのに、積極的に接種をしてわざわざ原因を作ってしまったという罪の意識があり、頭では理解できても感情的には納得できないことになります。
幸い今回は欧米と比べても高率ではなく、数ヵ月後には再開になりました。
原因は今ひとつはっきりしませんが、現実にはリスクゼロというのは無理です。
そのゼロの為に、多くの方が犠牲になることは避けなければなりませんから、受ける側にある程度の覚悟が必要となります。
ただしその前提が信頼、その信頼を得るのが医師の態度や言葉であり、今何が起きているのか情報開示です。
そんな中、肺がん治療薬のイレッサに関しては、重大な副作用の報告が相次ぐ中で投薬が進められていたとか・・・。
もしそれが本当だとすると、その覚悟を躊躇させるものです。
専門医によれば確かによく効くそうで、肺がんという未だに不治の病に医師もわらをも掴む気持ちだったのかもしれませんが、情報開示は必要ですね。
確かに医師も完全ではありません。
その努力が日々の仕事なわけです。
また患者側にもリスクのないものはないということを知ってもらうのが重要ですが、まずは信頼という土台ありきです。
お上(かみ)頼みの時代ではありません。
医療はお上ではなく、寄り添うものです。
時にはいい伴侶であり、時には親友であり・・・。
どんなに効果がある薬でも、高い死亡率であればまず承認されることはありません。
ただし、ローリスクだからといってノーリスク(危険なし)ではないことが重要です。
当院でも上部消化管の内視鏡検査を行いますが、当然のようにリスクの説明をします。
穿孔(穴が開いたり)、ひどい出血があったり、確率で言えば1000人、1万人に1人しか起きないことであっても説明しますが、それでも想定外なことが稀にあります。
だから単なる説明だけではダメで、前回ムンテラについて触れたように、信頼を得る態度や話し方が重要ですし、何よりも何かが起きた時にこそきちんとした対応で、何が起きたのかをきちんと情報開示することが肝要です。
よくトラブルとして上がるのが予防接種です。
今回、HIBワクチン(髄膜炎菌の予防接種)で幼児7名の死亡例が見られたため問題になっていました。
アナフィラキシーショックのように死亡に至る重大な副作用は100万人に1人の確率ですが、数百万人単位で接種者がいれば確実に有り得る事になります。
それが自分の子供に起これば悔やみきれないでしょう。
この悔みには、ついこの前まで元気に過ごしていたのに、積極的に接種をしてわざわざ原因を作ってしまったという罪の意識があり、頭では理解できても感情的には納得できないことになります。
幸い今回は欧米と比べても高率ではなく、数ヵ月後には再開になりました。
原因は今ひとつはっきりしませんが、現実にはリスクゼロというのは無理です。
そのゼロの為に、多くの方が犠牲になることは避けなければなりませんから、受ける側にある程度の覚悟が必要となります。
ただしその前提が信頼、その信頼を得るのが医師の態度や言葉であり、今何が起きているのか情報開示です。
そんな中、肺がん治療薬のイレッサに関しては、重大な副作用の報告が相次ぐ中で投薬が進められていたとか・・・。
もしそれが本当だとすると、その覚悟を躊躇させるものです。
専門医によれば確かによく効くそうで、肺がんという未だに不治の病に医師もわらをも掴む気持ちだったのかもしれませんが、情報開示は必要ですね。
確かに医師も完全ではありません。
その努力が日々の仕事なわけです。
また患者側にもリスクのないものはないということを知ってもらうのが重要ですが、まずは信頼という土台ありきです。
お上(かみ)頼みの時代ではありません。
医療はお上ではなく、寄り添うものです。
時にはいい伴侶であり、時には親友であり・・・。
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by asakura_h
| 2011-04-23 11:41
広告機構の宣伝で、「心は見えないけど、心遣いは見える。思いは見えないけど、思いやりは見えない」とよく流れています。
確かにそうですが、心遣いが見えても本当の心は見えないような気もしますが、それはともかく、最近見えない物による恐怖が心配です。
まず1つ目は、深刻を何回重ねても表現しきれないのが、福島第一原発の津波破壊による放射能漏出です。
よく放射能と放射線を混合されますが、放射能は放射線を出す物質のことです。
放射線のABCはギリシャ語でアルファ、ベータ、ガンマ。
アルファ線はヘリウムの原子核、ベータ線は電子、ガンマ線は電磁波で、ガンマになるほど透過力も強く、防ぐことが難しくなります。
第二次大戦中、アメリカのニューメキシコの砂漠で行われた原爆実験で、遥か遠くから原子雲を目撃した映画の撮影隊が被爆したとか・・・。
光も電磁波ですから、それが見えるということは同時にガンマ線も到達しているんですね。
何とも恐ろしい話です。
2つ目は、今じわじわと流行っているインフルエンザです。
風邪とは違い伝染病ですから、マスク着用や手洗いの徹底、予防接種の徹底、予防接種が間に合わない時は、抗ウイルス剤の予防投与が必要です。
そういう病気は原因が見えないだけに、昔の人は風を風邪(ふうじゃ)と書き、病気の原因にも例えました。
今では風邪は風邪(かぜ)症候群として残っています。
そのせいか、“風“がついた病名は結構あります。
中風というのは脳卒中のことで、悪い風に中る(あたる)ことで起き、それが突然(卒)くるから卒中というわけです。
また痛風は、最近患者が増えている病気ですが、尿酸が増えることで起こります。
風疹はウイルスによる疾患ですが、風によって発疹を起こすこと、風狂とは狂気や狂人のこと、風に中って狂うと思われていたのでしょう。
他に風眼とは、淋菌が目に入って引き起こされる急性結膜炎のことです。
驚風は小児の病気のひとつで、高熱、体の痙攣などの激しい症状を持った脳炎の類を言います。
ちなみに空気なんていうのもある意味で怖いかもしれません。
空気を読めないというだけで、いじめの原因となったりするようですから、考えてみればみみっちい話です。
その割には、平気で放射性物質を海に垂れ流したり、国内の空気ばかり気にして、世界の大きな空気は全く読めないですね。
空気を読むより風を読む方がもっと重要だと思いますが、つまり世の中の空気がどこに流れていくのか?なんたって怖いのは、先や明日が読めないこと、見えない明日が怖いですからね。
しかし、もっと怖いのは自分が見えなくなることかもしれません。
認知症の恐怖は、永遠に自分が見えなくなることです。
それでも、途中で見えたら笑い者だったりするのも嫌ですからね。
何とか自分を見失うことだけは避けたいものです。
確かにそうですが、心遣いが見えても本当の心は見えないような気もしますが、それはともかく、最近見えない物による恐怖が心配です。
まず1つ目は、深刻を何回重ねても表現しきれないのが、福島第一原発の津波破壊による放射能漏出です。
よく放射能と放射線を混合されますが、放射能は放射線を出す物質のことです。
放射線のABCはギリシャ語でアルファ、ベータ、ガンマ。
アルファ線はヘリウムの原子核、ベータ線は電子、ガンマ線は電磁波で、ガンマになるほど透過力も強く、防ぐことが難しくなります。
第二次大戦中、アメリカのニューメキシコの砂漠で行われた原爆実験で、遥か遠くから原子雲を目撃した映画の撮影隊が被爆したとか・・・。
光も電磁波ですから、それが見えるということは同時にガンマ線も到達しているんですね。
何とも恐ろしい話です。
2つ目は、今じわじわと流行っているインフルエンザです。
風邪とは違い伝染病ですから、マスク着用や手洗いの徹底、予防接種の徹底、予防接種が間に合わない時は、抗ウイルス剤の予防投与が必要です。
そういう病気は原因が見えないだけに、昔の人は風を風邪(ふうじゃ)と書き、病気の原因にも例えました。
今では風邪は風邪(かぜ)症候群として残っています。
そのせいか、“風“がついた病名は結構あります。
中風というのは脳卒中のことで、悪い風に中る(あたる)ことで起き、それが突然(卒)くるから卒中というわけです。
また痛風は、最近患者が増えている病気ですが、尿酸が増えることで起こります。
風疹はウイルスによる疾患ですが、風によって発疹を起こすこと、風狂とは狂気や狂人のこと、風に中って狂うと思われていたのでしょう。
他に風眼とは、淋菌が目に入って引き起こされる急性結膜炎のことです。
驚風は小児の病気のひとつで、高熱、体の痙攣などの激しい症状を持った脳炎の類を言います。
ちなみに空気なんていうのもある意味で怖いかもしれません。
空気を読めないというだけで、いじめの原因となったりするようですから、考えてみればみみっちい話です。
その割には、平気で放射性物質を海に垂れ流したり、国内の空気ばかり気にして、世界の大きな空気は全く読めないですね。
空気を読むより風を読む方がもっと重要だと思いますが、つまり世の中の空気がどこに流れていくのか?なんたって怖いのは、先や明日が読めないこと、見えない明日が怖いですからね。
しかし、もっと怖いのは自分が見えなくなることかもしれません。
認知症の恐怖は、永遠に自分が見えなくなることです。
それでも、途中で見えたら笑い者だったりするのも嫌ですからね。
何とか自分を見失うことだけは避けたいものです。
#
by asakura_h
| 2011-04-19 15:59
桜は春の代名詞。
朝倉病院も毎年4月には桜ワンダーランドに変わります。
病院周辺と中庭に植えられたソメイヨシノが一斉に花開き、病院全体を優しく包み込みます。
高齢者の病院なので、本来なら長寿の象徴である桃がいいのかもしれませんが、やはり何と言っても日本人は桜、わが病院の名前も朝倉(あ桜)病院ですからね。
ちなみに、奈良時代の花見と言えば梅でしたが、平安時代から桜に変わって以降、花と言えば専ら桜を指していた昔の日本。
3月に咲くヤマザクラは国花ですが、何と言っても桜の代表は4月のソメイヨシノです。
ソメイヨシノは江戸時代に改良され、実はクローンなんです。
日本中どこでも同じ花が見られる、高品質で均一な製品を作り出す日本の技術の代表でもありますが、1年の中でも目立たない木が多い時期に、美しい花を咲かせて鮮やかに散っていく様は何とも感動的であり、まさに日本人の共感する物語や人生の象徴でもあります。
その華やかさゆえ、実は根元には死体が埋まっていて、そのエキスを吸っているなんてウワサ話もあるぐらいですが、これは梶井基次郎の小説「檸檬」が基になっているようで、西行法師の詩から引用されたようです。
また、昔から桜染めという染色方法があり、これは実際に桜の花の色を出すため、染料を枝から取って使用されます。
桜の木を流れる染料のピンクが、人間の体に流れている血を連想させたのだという話ですね。
それにしても桜の花は美しい。
数年前までは、職員たちも夕方集まって花見をしていました。
もちろん職員のみでなく、入所利用者の方にも職員が散歩がてらにお花見をしてもらっています。
残念ながらその命もたった数日間ですが、東日本大震災のために今ひとつ気持ちが盛り上がれない中でも咲き散っていく姿は、自然の無常さと無情さをことさら感じます。
散りゆく桜・・・
朝倉病院も毎年4月には桜ワンダーランドに変わります。
病院周辺と中庭に植えられたソメイヨシノが一斉に花開き、病院全体を優しく包み込みます。
高齢者の病院なので、本来なら長寿の象徴である桃がいいのかもしれませんが、やはり何と言っても日本人は桜、わが病院の名前も朝倉(あ桜)病院ですからね。
ちなみに、奈良時代の花見と言えば梅でしたが、平安時代から桜に変わって以降、花と言えば専ら桜を指していた昔の日本。
3月に咲くヤマザクラは国花ですが、何と言っても桜の代表は4月のソメイヨシノです。
ソメイヨシノは江戸時代に改良され、実はクローンなんです。
日本中どこでも同じ花が見られる、高品質で均一な製品を作り出す日本の技術の代表でもありますが、1年の中でも目立たない木が多い時期に、美しい花を咲かせて鮮やかに散っていく様は何とも感動的であり、まさに日本人の共感する物語や人生の象徴でもあります。
その華やかさゆえ、実は根元には死体が埋まっていて、そのエキスを吸っているなんてウワサ話もあるぐらいですが、これは梶井基次郎の小説「檸檬」が基になっているようで、西行法師の詩から引用されたようです。
また、昔から桜染めという染色方法があり、これは実際に桜の花の色を出すため、染料を枝から取って使用されます。
桜の木を流れる染料のピンクが、人間の体に流れている血を連想させたのだという話ですね。
それにしても桜の花は美しい。
数年前までは、職員たちも夕方集まって花見をしていました。
もちろん職員のみでなく、入所利用者の方にも職員が散歩がてらにお花見をしてもらっています。
残念ながらその命もたった数日間ですが、東日本大震災のために今ひとつ気持ちが盛り上がれない中でも咲き散っていく姿は、自然の無常さと無情さをことさら感じます。
散りゆく桜・・・
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by asakura_h
| 2011-04-12 15:13