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医ごっそうのコラム茶や!


医療法人 仁泉会「朝倉病院」理事長の医ごっそうコラムです。
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IQ、EQでもなく、これからはGHQ?
受験の世界で時々耳にするのは、IQ(Intelligence Quotient、知能指数)神話です。
高かったら得でしょうが、最近では、あるにこしたことがないという程度かと思います。

確かにIQの高い人の方が時間を有効に使っているように見えます。
もちろん、それを否定はしませんが、知能は多様性があり、IQはその一面しか見ていないというのが、現在の多くの専門家の意見だそうです。

例えばEQ(Emotional Intelligence Quotient、情動指数)、一時期はIQよりEQといわれた時期がありました。
自分の感情をコントロールして、他人とうまくやっていける知能でしょうか?これが知能かという議論はありますが、中国の歴史で蓁の後の覇権を争った項羽と劉邦、結局、IQ型の項羽よりも、EQ型の劉邦が勝ちました。

数年前にTBSの番組で紹介されたPQ(Potentiality Quotient、潜在能力指数)、別名HQ(Humanity/Hyper-Quotient )と呼ばれる知能があります。
これは、前頭葉前野の機能をみたものです。
前頭葉前野は大脳の前の部分、外から見て額の部分にありますが、社会性や本能の抑制など、人間らしさを作り出す部位と言われています。

よく知られた例では、1848年アメリカのフィアネス・ゲージがダイナマイトの爆発で両側の前頭葉に障害を受けて、すっかり人格が変わってしまった話がありました。
実際の症状は誇張されていますが、確かに短期の欲望のために長期的な展望を組むことが難しかったようです。
それ以来、人間性はここにあると注目されました。
現在ではプランニングなど、人間の高度な能力を司っていることが分かり、それを調べるテストが考案されたわけです。
このテストが高いと色々な分野で成功する確率が高いようです。
即応力や柔軟な思考というような感じですね。

また、人を笑わせる能力というのも高度な能力です。
そう簡単に漫才師や落語家にはなれません。
そのために、HQ(humor、ユーモア指数)も考案されています。
確かに笑いのプロは、このテストが高かったようです。
他に芸術性やスポーツ知能もありますからまさに多様です。

そう思いながら、まだまだこんな指数があればというものもあります。
UQ(unieque、ユニーク指数)、いかにユニークな人なのかを知るテストなんてどうでしょうか?
AQ(adult、大人指数)、大人としての能力や品性があるのか?
やってみますか?あなたはAQ保存版か?

今、日本に一番求められているのは、いかに自分と違うものを受け入れられるか、GQ(Generous Quotient、寛容または寛大指数)じゃないかと思います。
これとユーモアが混ざった”GHQ”が高ければ最高に思えません?

それって、終戦後のアメリカ占領軍の名前ですか?
確かに今は財政的に終戦末期に似ている気もしますが・・・。

ちなみに医療従事者が必要なのは、いかに素早く対応できるかの即応力指数(Quick Quotient)ですね。
”QQ(救急)”は基本ですから。
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by asakura_h | 2011-02-24 10:47
広がる愚痴ワールド
グッチと聞けばイタリアの高級ブランドで、そう簡単には手に入らないようですが、愚痴も最近はなかなか手に入らなくなっているようです。

そんな愚痴を”愚痴外来”と称して小説に登場させたのは、数年前に話題になった医学小説「チームバチスタの栄光」です。
神経内科と書かれていましたが、これは正確には診療内科のこと。
そこでは、確かに愚痴ともつかない話を聞かされることもありますが、よく考えればこれは失礼な話です。
患者本人は真剣な訳ですからね。

まあ、それくらい愚痴はマイナスの象徴、後ろ向き姿勢の典型例のように見られています。
愚痴よりは、もっと前向きに格好よく思いやストレスを解消しようという風潮なのか、愚痴我慢はちょっと格好つけ過ぎじゃないかと思ったりします。

昔のサラリーマンはよく上司と一緒にお酒を飲んで、愚痴をぶちまけていたそうですが、最近の若い部下、特に30歳くらいの中には人に頼りたくないと思う者もいるみたいで、一緒に飲むことを好まないようですし、全くお酒も飲まない者もいて、愚痴を言う場自体も少なくなっているようです。
これでは、家庭で本音が言える配偶者や子供がいなければキレてしまいますね。

その為か、愚痴を吐く場がひとつのビジネスになっています。
まるで当たり前に手に入る水が突然、有料になる感じでしょうか?名付けて愚痴聞きビジネス。
電話で相談を受け付けているそうですが、結構な人気のようです。

競争社会というのは、誰も頼れない、人間の絆を切り孤立しがちです。
本家アメリカは典型的で、確かにアメリカ人は表面的にはフレンドリーで最高の付き合いができますが、なかなか本音は出しません。
そのために昔から精神科がその役割をしてきました。

日本ではこんなビジネスに頼るのは、競争社会の波が浸透してきた証拠ですかね。
また、電話で相談というのが、匿名好きの国民性を示しています。
でも、手相や占星術などの占いも一種の愚痴聞きだし、理髪店なんかでも散髪の合間にちょっとした愚痴のぶちまけ、愚痴まけで結構気が晴れると思うのですが・・・。

在宅で介護している方のために、傾聴ボランティアというのがあります。
介護にはストレスがつきものです。
それを聞いてもらうことで解消するんですね。
要するに愚痴は溜めないことが基本です。

ところが、そんな愚痴も積もれば意外な力となります。
今やクチコミ、マスコミ、カキコミに続く第4のコミュニケーション、グチコミと言ってもいいかもしれません。
インターネットのツイッターやフェイスブックへの愚痴は、ニュースでご存知の通り北アフリカで革命騒ぎを起こしています。

ただ、平穏に過ごすためには、愚痴を言える人が身近に必要です。
愚痴友はありがたいものですね。
その為にはくれぐれも格好、肩書き、能書きや文句をつけないことをお勧めします。
あっ、文句は愚痴か・・・。
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by asakura_h | 2011-02-15 11:58
これで相撲(済もう)と思うと負け
子供の頃、相撲での思い出は大鵬です。
あまりにも強すぎて面白くないこともありましたが、その見かけの美しさは際立っていました。
高校時代には、先代貴乃花が宿敵北の海を下して優勝した時に興奮しました。
また予備校時代には、輪島や北の海、二代目若乃花が三つ巴で優勝を争う勝負を見て、自分の気持ちを奮い立たせたこともありました。

しかし、今回の大相撲八百長問題については特に驚きはありませんでした。
というのも、千秋楽のここ一番で、優勝がかかった勝負ではありませんが、応援した郷土力士があっさり負けるのを見てガックリきたことが何度かありましたし、その後に何度も八百長報道があり、きっとそういう面もある世界だなと思っていたぐらいですから。

例えば、貴乃花と若乃花の兄弟確執問題の原因は、親方である父親の元貴乃花が、若乃花に勝ちを譲ってやれと言ったことに端を発すると報道されましたが、よく考えればこれもれっきとした八百長です。
この報道に誰も八百長と言わなかったのが不思議ですが、兄弟問題にカモフラージュされていたからでしょうか?
あるスポーツライターの記事では、相撲は神事、興行とスポーツの三つの面があり、純粋なスポーツではないと書いていました。
また過去には、ガチンコ(本気)過ぎてケガが絶えない時もあり、それを避けるための無気力相撲と称する八百長もあったそうですが、今回は悪質のように感じます。
特に闇組織との賭博問題が絡んでいますから。相撲はいつから国技じゃなくて、黒技(こくぎ)になったんですかね?まるで酷偽(こくぎ)です。

その理由の一つとして十両と幕内との経済格差も指摘されていましたが、相撲取りも生活者だという意識が欠けていたんでしょうか?
ただでさえ少子化とお尻を見せるのが嫌だという若者の多い社会で、労働条件を変えずに昔から同じようなシステムを続けていた能天気さに驚きます。
まさに低給与の非正規雇用者の上にあぐらをかいている企業と同じですね。

確かに相撲がないとつまらないです。
伝統ある文化以上に重要な雇用の場ですから。

昔、暴走族だった若者が新たな働き方をここに見つけることもできます。
若い受刑者でも力自慢、運動神経自慢であればこういう社会で、更生してから働くのも可能だと思ったくらいです。
このような人材の多様な受け皿の一つとしての相撲があります。
それが今や絶滅危惧職ですか?そうならぬようにする為には、雇用の場としての受け入れシステムを考える必要だと思いますが・・・・・。

もし、相撲関係者が「潰すことはできないだろう」「これぐらいでうまく逃げれるだろう」というのが透けて見えると、とんでもないことですね。
関取は責任を取ってこそ“責取り”です、地位を確保するだけの”席取り”はごめんですね。

今回は社会の目との場外大相撲ですが、負けると千秋楽の後はお開きになるかもしれません。
これで相撲(済もう)と思うと負けですね。
これこそ相撲だ!というのを見てみたいものです。
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by asakura_h | 2011-02-12 09:34
縁活のすすめ「縁熟社会はいかが?」
他人との心の距離の取り方は難しいものですね。
適度な距離が必要です。
頼り過ぎるとダメですし、あまりにも離れ過ぎると全く孤立してしまいます。

昨年放送されたNHKの無縁社会では、そのような孤立しすぎた人々の実態が紹介されていました。
その結果、遺体の引き取り手のいない、いわゆる無縁死が全国で3万人もいるとのことです。
核家族化、高齢化、晩婚化、少子化などが進行し、今後ますます増加が予測されていますが、中にはこれが昔のうっとうしい共同社会からの反動の結果だと捉える向きもあるようです。

確かに昔は農園などを基本として農耕社会でしたから、自然と人間関係も濃くなり、まさに”濃縁(のうえん)社会”でした。
八つ墓村のモデルとなった、戦時下の岡山の寒村で起きた津山三十人殺し事件などは、そんな農縁社会を象徴するような、狭い地域の濃密な人間関係の中で起きた大量殺人事件でした。

この”濃縁社会”の”縁”には血縁(または結婚による結縁)、地縁、社縁とあります。
血縁は明治時代に制度として導入された家長制度に基づき強化されました。
よく耳にするのが、娘さんが上の学校へ進学したいのに、父親が「女には学問はいらない」みたいな古い考えの持ち主で、進学に反対され行けなかったなどの父親の強権を示す話です。昔の女性は大変でしたね。
地縁は近隣をまとめた社会組織の最小単位です。
始まりは奈良時代の五つの家族を集めた五保制であり、江戸時代には五人組、戦前には町内会があり軍部の実行組織としても機能しました。
社縁は明治時代以降に現れた、主に会社を中心とした組織です。
これらは社会の安定に重要な役割を果たしていましたが、その為の煩わしさは大変なものです。

何しろ縁に囲まれると、本音も”囲縁(いえん)”社会ですし、相撲の八百長や日本の政界なども、身内の縁に取り込まれて周囲が全く”身縁(みえん)”社会ですからね。
まさに腐れ縁による”く縁(くえん)”社会なんて、犬も食わないですからね。
だから、昔のようには戻りたいとは思いません。

最近は、以前と違った緩やかな縁が始まっています。
”住み開き”という自宅を開放して近所の方と交流する方法や、自分の趣味を通じて交流を深める趣縁など、いずれにしてもこれからは巷で言う、縁を求めて活動する「縁活」も必要なのでしょう。
世の中を円滑に動かすためにも。
もちろん、慎重になりすぎて、縁起をかつぐ”縁かつ”では困りますが・・・。

日本人で「俺は一人でいい」という人がスネているように見えるのは色眼鏡ですかね。
とにかくこれからは、個人が自立しながらお互いを助け合う、程よい心の距離感が必要でしょう。
そうすれば縁に成熟し、熟練した熟縁社会、あるいは縁熟(円熟)社会になる気がしますが。
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by asakura_h | 2011-02-10 12:18
いつの間にか感中症
昨年の夏は猛暑で熱中症の患者が多く出ました。
まさに熱に中る(あたる)とはこのことです。

中るといえば他にもこんなのがありますね。
ネットにはまって中るネッ中症、タイガーウッズのようにセックスにはまって中るH中症(えっちゅうしょう)、猫が大好きで猫に中る猫中症(ねこちゅうしょう)、やたらと大きなものにはまって中るのは大中症(大中小)ですか?

それはともかく、最近、気になるのが、韓流ドラマに中る韓中症ではなく、感動または感激に中る感中症、別名「感動中毒症候群」、いわゆる感動したくてしょうがないという症状です。
感動が高じると具体的に行動します。

昨年のサッカーワールドカップや先日のアジアカップなどの一過性な騒ぎや、今回のタイガーマスクを名乗る寄付現象をうがってみると、ベースにはこの感中症があるのではないかと思ってしまいます。
この特徴は、喉元過ぎればあっさりと終わってしまう点、さらにはこの感動が裏切られたときのしっぺ返しが凄い点ですね。
途端にバッシングです。

恋愛ドラマでもありましたね。
セカチューといえばピカチュウの仲間ではなく、「世界の中心で、愛をさけぶ」という数年前の大人気小説ですが、そのヒット以降、テレビや映画では一時期不幸な恋愛が流行りました。
余命何日の人との恋愛話を取り上げたドラマや映画が作られて、まるで不幸な人と恋愛した者勝ちみたいな・・・。

これらは一種のお祭り待望症状でしょうか?
ドラマチックな何か非日常的な体験をしたい強い願望という。韓国スターに酔ってしまった中年女性や、今の斎藤佑樹ブームも典型例ですかね。

そのおかげか知りませんが、確かに祭りと称するイベントが多いような気がします。
高知なども「それしかないがかえ」と言うくらいよくイベントをやっています。
龍馬博の最中には、坂本龍馬の生誕兼命日のイベントがありましたし、龍馬博が終われば続いて土佐の「おきゃく」とかやっています。
去年の11月には広く介護士の仕事を知ってもらうために、「介護まつり」というのがありましたが、ちょうどその日も他のイベントといくつか重なり、あまり参加者が少なかったことを覚えています。
それにしてもイベント中心のお祭りは既に食傷気味です、何か違った祭りはないもんだろうか?ひょっとしてこう思うのも、いつの間にか感中症ですか?

この背景には、何か抑圧された状況があるような気がします。
特に日本では空気感が大事だと言われますが、もともと「気」は一種の超能力や超越した力を意味します。
雷から得る不思議な力が電気ですし、天候を支配する不思議な力は天気です。
人間の中にも根気、勇気、本気などあります。
空気は人間の周りで目には見えないけれど、何か力のあるものです。

今、日本はそういう空気に支配され息が詰まっているのではないか?
エアコントロール、エアコン症候群でしょうか?
政治もその一因でしょう。感中症はそのひと時の開放だと思ったりします。

一方、無感動症候群の若者もいるようで、なかなか程々でいることは難しいですね。
感中よりも、中感(中間)でいるというのは・・・。
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by asakura_h | 2011-02-04 17:31
魂の遺伝子
阪神大震災から、はや16年が経ちました。
多くの犠牲者を出し、ふと人の死について考えるこの頃です。

思い返せば、小学4年生の頃、田舎の祖父の墓参りに行く途中で、もし自分が死んだらどうなるのだろうと思い、空恐ろしい気持ちになりました。
ずっと眠った状態が続くけど、自分の存在さえ確かめようのないただの無の状態、それが死の状態だと思ったからです。

ここで死後の世界を考えれば楽なのでしょうが、誰も帰ってきた人はいないので、今も想像ができません。
だからといって、人の死はただの生命現象ではなく、何か意味があるものだと思います。

しかし、そこには条件があります。
例えば、亡くなった方の解剖で遺族に承諾をもらう時、死因を調べることで原因解明に役立て、その死を決して無駄にしないことを説明しますが、結局、その死を無駄にするか、しないかは残された人の思いひとつだということです。

また、人は二度死ぬと言います。
一度目は肉体的に、二度目は忘れ去られた時、だから忘れ去られた時こそが本当の死だと・・・。

そこで思い出すのが、去年、龍馬伝で三菱の創始者である岩崎弥太郎を演じた、今俳優ナンバーワンの香川照之さんが、尊敬する故松田優作さんのことをある紙面で語っていた時、松田さんは幸せだと感じたことです。
まるで魂が生きているようにその生き様、考え方が香川さんに影響されていたからです。

こう思うと、人間は伝えられることで生きている。
死んだ人間は、残された人によって伝えられることで生きている。
それが人の死の意味のひとつじゃないかと思ったりします。

それでは、死に行く我々は何を伝えていくのか?
人によって色々違うでしょうが、伝える事や物があり、それを伝えてくれる人がいれば、死は怖くないのではないか?

ただ、そう簡単には割り切れないでしょう。
単なるきれいごとだよ、と言われるかもしれませんが、中国の砂漠地帯で数世代にわたり、砂漠の緑化という壮大な計画を考える人たちのことを思い出しました。
彼らの計画が伝えられることで永遠に生きています。

ロボットの小説である「アイの物語」には、介護ロボットがその人のことをずっと記憶して、いつまでも出会う人に伝えてあげると言って、老人を励ます場面がありますが、もしかすると、昔話やおとぎ話はその役割をしていたのかもしれませんね。

マンガの巨匠である手塚治虫さんの作品で、その血を飲めば永遠の命を得ることができるという「火の鳥」の話がありますが、彼は本当にそれを飲んだのでは?と思うくらい、その作品は今でも生き続けています。

そういう意味で、死者は生きられる。
我々が伝える限り生きられる。
繋がっている限り、そこには魂不変の法則があり、人の魂は言葉や行動を通じて代々と伝わる文化の遺伝子のように、魂の遺伝子として・・・。
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by asakura_h | 2011-02-01 10:14